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社会と研究をつなぐ(1)―講演会@大分

大分県の地域活性化にかかわる講演会でゲストスピーカーとして講演してきました。
このような社会貢献への活動は積極的に受けていきたいですね。
私のお師匠もいろいろな社会貢献活動に積極的だったので、見習っていきたいと思います。

湯布院にいって別府の温泉入ってきました。

ちなみに、大分駅すぐのところに「餃子飯店」というラーメン屋さんがあるのですが、HKTさっしーのいとこがされてるお店とのことです。
でもそれはそれとして、ラーメンは九州には珍しく豚骨ではなく鶏ガラ醤油スープで、餃子ともどもとてもおいしいところなので、大分に行った時には足を運んでみるといいと思います。
鶏ネギラーメンと、売り切れていなければ山菜ごはんを一緒に食べると捗ります。

(撮影・投稿許可はいただきました笑)

つれづれですね

◆ネットで見た対義語
①天使のブラ⇔鬼のパンツ
②にわか雨⇔ガチムチ
③鳥貴族⇔魚民
④引っ張りだこ⇔のしイカ
⑤女子会⇔男塾
⑥SEKAI NO OWARI⇔BEGIN
⑦森ガール⇔海坊主
⑧レディ・ガガ⇔ミスター・ポポ
⑨あばれる君⇔しずかちゃん
⑩白い恋人←桃色の片思い→赤の他人

…1番秀逸なのどれかな

ツイッターで流れてきたこれ、ちょっと論考してみる。

まずはじめに、結論として、2が最も秀逸であると考える。
ただし、いずれの対も秀逸であり、僅差で、また個人的な嗜好によって2が秀逸だと結論づけたと言わざるを得ない。

上記の理由から、加点方式あるいは直接法的によい点を挙げていく方法ではなかなか決着をつけ難い。そこで、まずは減点方式あるいは消去法的手法をとってみたい。

はじめに除外されるのは、8レディガガ-ミスターポポおよびあばれる君-しずかちゃんだろう。
なぜなら、対比が相対的に弱いためである。具体的に見ていこう。8レディとミスターの対比は秀逸である一方で、ガガとポポには実は対比らしい対比はない。もちろん、同じカタカナが並び、かつ濁点(半濁点)が付くという点は共通するものの、それだけである。
9あばれるとしずか、の対はひとまず棚上げして、君とちゃんに着目しよう。この対はもちろん対比ではあるものの、一般化されているワードの対であり、対比として押し出すほど秀逸な点であるとは言えない。また、先ほど棚上げしたあばれるとしずかの対がこの弱点を補えるかというと、ここでも対というにははっきりせず(すなわち、たしかに対比されているが、しずかの反対はうるさい、が正当で、あばれるはうるさいを想像させる二次的なワードに過ぎない)、また、はっきりしなくてもゴリ押しできるようなインパクトもない。

次に除外されるのは、5女子会-男塾だろう。なぜなら、実はこの対は対比のテイをなしていないためだ。女子と男の対比はさておき、会と塾は明らかに単なる共通項である。
しかし、この対が先の2つと異なるのは、その圧倒的なインパクトである。男塾というワードは固有名詞であり、実際の話もインパクトの塊と言っていいような内容である。さらに、先ほど対比ではないと指摘したものの、実は想像によって対比が形成される。すなわち、女子会というきゃっきゃうふふに対して男だけのむさ苦しさや殺伐感の対比が容易に想像される(なお、実際の女子会がきゃっきゃうふふではない可能性については本論考の範囲を超えるため言及しない)。

ここから先は、極めて接戦となる(もちろん、ここまでで除外した3対も極めて秀逸な対であったことは疑いようもない)。
しかし、あえてここでは、7森ガール-海坊主を除外する。まず、森と海の対比は極めて秀逸であるが、冷静に考えるならば、山と海がより典型的な対比だろう。また、ガールと坊主も同様に秀逸である。特に単に逆ではなく、言わば対偶とも言えるべき構造は極めて豊かな発想であると言えよう。しかし、いかんせん、ガールというワードに対して坊主というワードは、対9で指摘したような、年配の男性を想像させる二次的なワードに過ぎない。
しかしながら、ここまでで対7が除外されなかったことの大きな要因は、共に一つのワードとして完結しているにもかかわらず、その中に2つの対を見出し、また、先ほど指摘したような対偶的な対を形成していたため、つまり、全体としてのまとまりが秀逸だったためである。

さて、この段階になると、6SEKAI NO OWARI-BEGINを除外せざるを得ない。むしろ、読者の中には、なぜこの対がここまで残っているのかを疑問に思う方もいるだろう。
まず、この対も対偶的な形を成している。すなわち方や日本語、方や英語である。また、共にミュージシャンという点が共通することもポイントが高い。ここでのポイントは、「ありふれたワード同士ではなく各々が唯一無二のネームにもかかわらず極めて秀逸な対比がなされている」ということが重要である。
つまり、これまで除外してきた対とは異なり、ピンポイントなワードの組み合わせだったため、ここまで残した。
しかし、惜しむらくは、一つの対比しか含んでいない点である。これまで除外してきた対も2つの対比を含んでいた。

ここで、ついに10白い恋人-桃色の片思い-赤の他人を除外する。これ以降の除外は、筆者も断腸の思いである。
ここで除外される理由は、インパクトに欠けるという点に尽きる。中間を含めることでより綺麗なまとまりを見せているものの、恋人←片思い←他人、の流れはどうも社会の表層しか見ていないような、浅いような、そんなイメージが湧いてしまう。ここまでいくともはや個人の好みだが、世の中そんなに単純で理想通りにいかないと思うし、そういう意味で、インパクトが弱い(言い換えれば辞書的である)と結論づけ、除外する。

残るは対1-4であるが、ここからは、加点方式でいかに2にわか雨-ガチムチが秀逸かを、その他の対には見られない点を中心に説明していきたい。
まず、いずれの対も、固有名詞ないし非ありふれワードで成り立ち、2つ以上の対比を含む。
しかもそれぞれの対比はいずれも「対」のテイを成している、すなわち、明確な反対のワードから成り立っている。

しかし、2はその中でもさらに異彩を放つ。具体的には、次の3点である: 1)飴と鞭を、飴でもなく鞭でもなくまったく関係のない雨とムチ(マッスル的な意味で用いられる)で表現していること、2)にわか-ガチの対比も秀逸ながら、「にわか雨」「ガチムチ」というそれぞれ完成した一つのワードから成り立っていること、3)そして極めて強烈なインパクトをあたえること、である。

以上の点より、筆者は対2が最も秀逸であると主張する。

反対意見へのディフェンス:
1)にわかとガチが明らかな対比と言えるのか(ガチに対して素人が正当では?)
2)雨とムチは、むしろこじつけで、対比というにはおかしいのでは?
あたりが反対意見として指摘される点だろう。
まず1については、明確な対比であることに加え、「素人」ではなく「にわか」を使うことで、ガチと同様いずれも今の時代にこそ使われるワードという共通点が付与され、むしろ現代に対する皮肉をも内包するかのような極めて秀逸な対比であると考えられる。
次に、2について、ここには筆者の好みが最も強く反映されているため、反対意見はそのまま受け入れざるを得ない。
しかし、あからさまな対比として示さず、しかし実は緻密な対比であるという奥ゆかしさ、または能ある鷹は爪を隠す的な何某か、さらには、それが巧妙にそれぞれ一つの完成されたワードに隠されている、という点を、筆者は評価した。

自分なにやってんだろ笑